愛してやまない

観劇ログ、はじめました。

陰陽師 生成り姫

陰陽師 生成り姫」観劇しました。久しぶりの三宅くんと林くん舞台です。ファンタジーなんだけど、誰に対しても人間くささがあるといか、情を感じるお話でした。ネタバレあります。

あらすじ

 管弦の名手である源博雅は、ある姫君に出会う。彼女の顔はおろか、名前すら知らない。ただ、博雅が堀川橋で笛を吹くと決まって現れる牛車の持ち主であることはわかっている。
 ある時、博雅の笛の演奏に合わせて琵琶が奏でられた。姿は見えないが、姫が弾いているに違いなかった。ひとしきり合奏を楽しんだ博雅は、興奮のまま牛車にかけ寄り、姫に声をかける。しかし、博雅が姫に名を聞くと「それだけは言えない」と拒絶し、牛車は去ってしまった。博雅は美しい琵琶の音色と、わずかな会話から感じた姫の魅力に、想いを強くする。


 それから12年、友である安倍晴明と酒を交わしながら、博雅は当時のことを思い返していた。もしかしたら、また会えるかもと晴明に唆され、堀川橋で笛を吹く博雅。すると、姫の生き霊が現れた。助けてほしいと言い残して消え去った姫、徳子の足取りを追い、博雅は捜索を始める。

感想

 和モノと思ってたんですが、意外とダンスや音楽に洋の成分が多くて、不思議な感覚でした。和洋折衷ファンタジー。ビジュアルは完全に和なんですけどね。

無神経な人間たちの温床が生む地獄

 徳子を好きなあまり、騙されてお家破滅のまじないを実行してしまう舎人の火丸。徳子を助けなければ!と言いながら「永遠に二人で共になれる」と唆されて鬼化を手助けする博雅。声を出すなと言われながら余計なことをして火に油を注ぐ大納言の済時。他人の形見を壊しておいて、命までもはとられまいとたかをくくっていた綾子。
 読解力皆無と無神経の温床が生み出す地獄は、目の前の一つの事象を見て安易に大きな決断をする危うさを教えてくれますね。どれだけ説明しても、最後の1行しか頭に残らないのか。記憶が追記じゃなくて上書きタイプの人間が安直な判断で悪手に悪手を重ね、事態を悪化させていく。それこそよっぽど鬼の所業に感じる。


 それにしても、お家破滅させておいて、のうのうと好きな女にお仕えしているのはどうなんだろう。神に命捧げるの遅くないですか?と、火丸に些か不満は感じています。人柱でどうにかなると信じてるならもっと前にやっておけよと。そんなんだから最期も仕留められないんだよ……本当、そういうとこだぞ……。

徳子の苦悩と虚無に思いを馳せてしまう

 徳子って、惚れ薬で一時的に好きになっただけで、済時へ特別感情はなかったと思うんですよ。まあ、ちょっとはすきになってたのかもしれないけど*1
 それなのに、両親の形見は取り上げられ、男には自分を妻にしておきながら捨てられ、家は衰退の一途なのに頼れる者もおらず、好きになった男はいるのに結婚しているせいで身動きもできない。平安時代での最重要ミッションである「子供を作ること」ができなかったので、おそらく周りからも軽んじられて扱われていたことだろうし。
 綾子の元に現れた時の姿を見るに、相当没落した生活をしつつも、姫という立場上、なにかと見栄を張らざるを得ない板挟み最悪の状態で生活していたんでしょうね。この時代の女、町娘ならともかく、労働してはいけない身分だと誰かからの寵愛なかったらオワリなので、諸々お察しする。


 つまるところ、徳子は満たされたかっただけなんじゃないかなと思う。人の優しさに触れて、愛情を注がれて、自分が存在する意味を身分以外の理由で満たしてもらえれば、それで十分よかったんじゃないか。
 博雅を好きなのに結ばれかったことはあれど、家が没落した時点で火丸が「姫だからではなく、あなた自身が好きだ」と一言でも伝えていたなら、姫と言う身分を捨てて共に駆け落ち、街で暮らしましょうとでも言っていたなら、多少は違う未来もあったんじゃないかとも思いますね。ま、それができないのが火丸と言う男なんですが……。

鬼化後も残る人間らしさ

 恨みが肥大して人が鬼になり、姿形・能力が変わるだけで、今作に出てくる鬼は、むやみやたらに人を傷つけるわけではなくて。恨みを持つ対象と、それを邪魔する者への怒りがあるだけで、市井で暴れ回るとかはない。
 本来心優しい徳子が生成りを経て鬼になったこと、徳子が鬼になる過程で純朴な博雅を取り込んだこと、その博雅と徳子の間は純粋な愛で結ばれていたこと、が功を奏したのかもしれないんですが。結末の救いはこのあたりが作用しているんだろうなとは思いましたね。まっとうな人間が救われる結末は良い。徳子、本当にただの被害者だったからね。


 鬼になった時、それから調伏される時、鬼がうずくまるように手足を身に寄せる演出がされているのですが、人が鬼になることの物悲しさを感じますね。恨みや怒りを表に纏いながらも、本質では寂しさとかそういう柔らかな感情が起点になっているはずなので。
 鬼になっても根本の解決にはならないんだろうし。恨みの対象を仕留めたら満足感で充足するのかもしれないけれど、元の人間が心優しいほど虚しさが増す気がする。
 見た目は悍ましいし、首を捻じ切ったりと、所業も妖のそれではあるんだけど、所詮は人間から派生した心の脆さみたいなものを同時に感じたな。今作の鬼の形が頭身的に赤子のようにも見えたので、そう感じただけかもしれないけど。なんか、鬼もかわいそうな生き物なんだなって思った。


 鬼が瞬きするの、かわいいんですよね。あれがなんか妙に人間くさいんだな。瞼があるって、なんか、生き物って感じがする。
 私の中では、妖とか霊って生きた動物のカテゴリに入らないので、鬼化したものも生き物とみなさないんですけど、ああいうふうに人間の生理的な機能を残していると、元は人間だなあって思う。人ならざるモノになるってことは、実体が肉体である必要がないので、そういう生理的な機能って削ぎ落としてしまってもいいと思うんですよ。使わない機能って基本退化するし。
 目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので、目のあたりに動きがあると、感情がある気がする。恨みに支配されて、それをはらすために特化して、姿形も変わったはずなのに、やっぱり人間であることは捨て切れてないんだなって。

安倍晴明の持つ人間味が魅力的

 今作は安倍晴明の人間くささがとても魅力的ですよね。友達の命がかかった時に、どうしたらいいのかわからなくなる。とても普通の感覚。安倍晴明って神様の子供とか妖の血が混じってるとか諸説あるけど、この晴明は天才ではあるけど、人間だなって感じがする。人間が思う命の価値と感覚が同じというか、生きていることを大事にしてる。あれだけ術が使えても、世界線をマージできても、真っ当な方法で生きることが一番良いことと考えてそうだなって。倫理観のある安倍晴明だった。
 三宅くんのお芝居も、以前拝見した舞台以上に作品に溶け込むもので、良かったです。三宅くんって、なんだろう。人間の情を言外ににじませるのが、お芝居に限らずですが、お上手だなと思いますね。優しさと言うのも的確ではないんだけど、優しい人にしか出せない空気感みたいなもの。
 

源博雅はかわいげのある男

 端的に言ってかわいいんですよね。劇中でも安倍晴明が言及する通り、まっすぐで純粋で、一生懸命。でも、踏み込みすぎないところが晴明にとっても心地いいのかな。晴明にとって陰陽師という職に関係なく、ただの人間の友人の一人として接してくれる博雅は貴重な存在でもあるんだと思う。この子、法術もマジックショーくらいに思ってますからね。
 林くんも本人が結構博雅っぽいと思うので笑、本当に自然だし、ぴったりだなと。徳子がどんな風貌をしていても、きっと好きだと思うと断言する博雅の、人間の本質を見て交友関係を構築しているところが感じられて良かった。子供っぽさも残しつつ、仕事人でもあるところを、博雅の持つキャラクターの範囲内でギャップを見せてくれていて、本当に違和感なく源博雅として見れたのも良い。着物の所作が美しいところも。


 ただまあ、鬼になるのを救おうとしたけどできなかったからといって、唆されて「俺を食え!」というのはまあ安直だなと思いましたが、メリバ的にはたしかに正解ではある。でも徳子がやめてほしいといってるのに突っ走るのは良くないと思う。それはメリーできない。
 しかし、こうして考えると道満あまりにもメリバ厨だな……。あの人もあの人なりの優しさ的なものがありますよね。多少、人とものさしが違うだけで。悪者に描かれがちだけど、信じるものや大切にしてることが違うだけって感じもするし、それで助かる人もいただろうなと。

まとめ

 観劇後に改めて人間らしさとは、を考える作品でした。情が人を狂わせる。何かに一生懸命な人たちばかりで、悪手を重ねてばかりなんですけど、「どうしてそんなことするの?!」とは言いたくなっても「そうはならんやろ」とは言い切れないなんとも絶妙な境界がある。このあたりが原作や脚本、演出の妙なんだろうなと。


 陰陽師やら妖怪やらは、もっぱら劇団☆新感線で摂取することが多いので、上品に作られたものは新鮮ですね。ポンコツが感情直結型・無鉄砲論を話している時に「お前は喋るな!」と罵りながら殴ってくれるストッパーがいないと、こうも皆各々で突っ走ってしまうのか。舞台における暴力、ひじょうに話が早い。古くからツッコミで言葉と同時に手が出る理由も頷けるな。観劇中に恋しく思ったりもしました。


 

*1:生活の面倒みてもらったり抱かれたりしてたら、薬なしでも情くらい湧くかもしれない